藤野先生の解剖学のノオト

 その月光の夜から四、五日経って、何でも仙台に初雪が降った日だったと覚えている。私は学校の帰りに周さんを私の下宿に引っぱって来て、こたつにあたり、まんじゅうを食べながらいろいろ話をして、そのうちに周さんは、妙な笑いを顔に浮べて、周さんの鞄《かばん》からノオトを一冊取り出して私のほうにのべて寄こした。見ると、藤野先生の解剖学のノオトである。「ひらいてごらん。」周さんは笑いながら言う。 私はひらいて、眼を瞠《みは》った。どのペエジも、ほとんど真赤なくらい、こまかく朱筆がいれられてある。「ひどく直されていますね。誰が直したの?」「藤野先生。」 はっと思った。あの日、藤野先生が、ひとりごとのようにしておっしゃった「不言実行」の意味がわかったような気がした。「いつから?」「ずっと前から。もう、講義のはじまった時から。」 周さんは、さらにくわしく説明して、藤野先生が、あの最初の解剖学の発達に就いて講義をなされて、それから一週間ほど経って、たしか土曜日だった、先生の助手が周さんを呼びに来たので、研究室へ行ってみると、先生はれいの人骨のむれに取りかこまれ、にこにこ笑いながら、「君は、私の講義が筆記できますか?」と尋ねる。「ええ、どうにか出来るつもりです。」「どうだかな? ノオトを持って来て見せなさい。」 周さんがノオトを持って行くと、先生はそれを預って、二、三日経ってから、かえして下さって、そうして、「これから、一週間毎にノオトを持っておいで。」とおっしゃる。

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